2月4日の記録(後編)
「生きる輝き」
おぬまは歩く。
行きと違って、帰りはいろいろなことを考えながら歩いた。
そのどれもに共通しているのは、「生きることについて」の考えだということ。
自身の生活をいくつかのカテゴリーに分けて振り返る様子は、前回の記事に書いた。
その後、最近読んでいる本や、ふとしたときに頭の中で流れだす曲についても考えた。
今回は、それらの話をしていきたい。
「宮本武蔵」を再読
何度目だろうか。最近、久しぶりに吉川英治の「宮本武蔵」を読んでいる。
前回読んだのは、ちょうど1年くらい前のことだった。バイトに出かける直前に読んでいて、「もう出ないと遅刻するぞ」というギリギリまで読んでいた。
それは、たまたまそのとき、武蔵と小次郎の決闘という、いちばん熱いラストの部分を読んでいたからだった。
初めて読んだのは
最初にこの作品を読んだのは、たしか14歳のときだった。
当時は竹刀を毎日振っていたので、そういう面から考えるとそれなりに馴染みやすい話ではあった。
しかし、人間の一生の何たるかについて、深く考えることはあまりなかったので、その内容をどれだけ理解して読んでいたかは甚だ謎である。
あれから6年以上の歳月が流れた。
生きる上でのヒントを多く得ている
人生は時に、都合よくできているもので、日々悩み、追い求めていたものが読書によってふと解決することがある。
「そうだ、知りたかったのはこのことなんだ」
本を片手に、そう叫びだしたくなるときがある。
昨年末、「何かをしたいが、何をすればいいかわからない」と悩んでいたときに岡本太郎の本を読んだ時にも、同じ感覚を味わった。
さて、「宮本武蔵」。
この物語は、主人公の宮本武蔵が17歳のところからスタートする。その時点で、初めて読んだ14歳のときには理解が難しかっただろうと思い返すのだが、
20歳となった今では、17歳の武蔵の心情も、いくらかわかる。
関ヶ原の戦いの後、紆余曲折を経て、およそ3年間姫路城の天守の一間で書物を読んで暮らす武蔵。
21歳になってそこから出され、武者修行として諸国を歩いて回ることになる。
ここから先の武蔵は、近い未来の自分でもある。
年齢的にも近いし、年末来体を鍛え始めたのもあってか、近頃の自分が考えていることと同じようなことを、物語の中で武蔵も考えていることが多い。
詳しい話はいつかするとして、とにかく最近読んでいる「宮本武蔵」からは、生きる上でのヒントを多く得ているとだけ言っておこう。
そんなことを考えながら歩いていると、「みなにこ通り」の上り坂が見えてきた。
尾崎豊「誕生」
尾崎豊の「誕生」という曲に、年末から惹かれ続けている。
毎日何度かは必ず聴いている。そして、ふとした時に頭に流れてくる。
そんな曲だ。
曲の長さは9分55秒とかなり長いが、それを聴いていると不思議なことに約10分があっという間に過ぎていく。
特に好きなのは、曲の後半のこの部分。
Hey, baby 忘れないで 強く生きることの意味を Hey, baby 探している答えなんか ないかもしれない 何ひとつ確かなものなど 見つからなくても 心の弱さに負けないように 立ち向かうんだ さあ 走り続けよう 叫び続けよう 求め続けよう この果てしない 生きる輝きを
近頃、生きることの意味がわからなくなり、戸惑い、悩むことがある。
いったい、何が答えなのか。そんなものは、はじめからないのか。それとも、答えを手にできる者とできない者がいるのだろうか。
考え込んでいても始まらない。
この「誕生」という曲のように、果てしない―まことに果てしない―生きる輝きを求めて、歩き続けようではないか。
もしかしたら、探している答えなんか見つからないかもしれない。
だけど、それでもいい。
見つからないこと自体が、答えだという可能性だって十分にある。
歩くことは精神の成長のために、必要不可欠だ
家から4キロ歩き、そしてまた4キロ歩いて戻ってくるという小旅行も、やがて終わりが近づいてきた。
片道50分程度、往復で100分という時間を要したが、とても良い時間になったと思う。
これからも日々、歩きに出かけよう。
家の中で本を読んだり、トレーニングをしたりするのも、もちろん大事なことだが、
それ以上に、外に出て多くのものに触れることは、生きる上で必要不可欠なことだと思う。
身の回りの些事にあくせくすることから離れ、ただゆっくりと大地を踏みしめて歩く。
このことは、人間の精神が不断の成長を遂げるためにも、良いことであるに違いない。
それは取りも直さず、私たちの命が持つ「生きる輝き」を高めることにもつながる。
(「歩くおぬま(5)」終わり)
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