2月3日の記録
「あの山のように」
夕刻、ふと無聊(ぶりょう)を覚えて外に出た。
空を見れば、赤々と燃える夕陽が、今にも沈まんとしている。
「ああ、今日も暮れるなあ・・・」
今日1日を振り返ってみる。自分は果たして、どれだけのことができただろう。それは自分に恥じない生き方だっただろうか。
考えれば考えるほど、「こうするのではなかった」「ああすればよかった」という思いが湧きだしてくる。
煩悩は、尽きることがないのだろうか。
様々な思いが胸を駆け巡るが、ひとまず忘れて、空でも見ながら歩いてみよう。
南風台の交差点から北に延びる「みなにこ通り」という通りを、まっすぐ北に向かって歩いてゆく。
夕空にそびえたつ可也山が、神秘的なまでに美しい。
「あの山のように大きく、逞しく、そして美しく生きたい!」
そんな思いが、あふれ出てくる。
可也山を前にすると、自己がどれ程ちっぽけな存在かということが、はっきりわかる。
何を悩み、苦しむのか。あの山を見るがいい。何千年、何万年も、ああして悠然と立っているではないか。
まだまだ自分は20歳。
きっといつか、あの山のように逞しく美しくなってみせる。
2月4日の記録(前編)
午前11時。
前日の夕方に歩いた道を、同じように歩いてみる。
昨日の帰りは、もう道が暗かった。裸眼で歩いたので、何も見えずにしばしば危険な目にも遭った。
しかし今日は、明るいのでそういった心配はほとんどない。
だから、どんどん歩く。
歩き方については、色々な歩き方があるのだろうが、自分は雲の上を進むような、軽やかな歩き方を極めたいと思う。
まるで、人の波を泳ぐように。それは達人の歩き方のようにも思える、何の道かはわからないが・・・。
可也山は今日も素晴らしい。何度見ても、富士山に似ていると思う。そう言いながら、本物の富士山を見たことはないのだけれど。
いつか富士山の麓に立ってみたい。その頃には、自分は今より遥かに成長していることだろう。毎日が、新たな発見と成長の連続だ。
今日は時間があるので、昨日引き返した地点を通り越して、さらに北上することにした。
目的地を設定
南風台から志摩まで、まっすぐに道が続いている。
途中には川があり、田んぼがあり、そして常に左手に可也山が見えている。
当面の目標として、志摩イオン(「イオン糸島ショッピングセンター」というらしい)を設定した。
自分のトイレ事情を考えても、これは妥当な設定だと思われた。むしろ、トイレの間隔が遠すぎるくらいかもしれない。
何も考えずに歩く
目的地まで、ほとんど何も考えずに歩いた。
普段は、「何かこの機会に、じっくり考えよう」と気負ってしまうものだが、ふと「無理に何か考えようとするのも変な話」と気づき、やめた。
特に考えることがないなら、考えなくてもよい。何も考えずに「無」であることこそ、日常ではあまりできないことだった。
だから南風台から志摩イオンまで4キロ歩く間、目に入るものについて一瞬感想を抱く以外、ほぼ何も考えずに歩き続けた。
稀有なことだといっていい。
人の一生とは何か
志摩イオンに到着し、トイレを済ませたら、「帰ろうか」という気持ちが湧いてきたので、素直に帰ることにした。
行きの道では、ほとんど何も頭に浮かべずに歩いていたが、その反動か、帰り道では次から次へと考えが浮かんできた。
人の一生とはいったい、何なのであろうか。
これは近頃、よく考えることである。
人は日常生活の中で、さまざまな活動を行う。それは必要に迫られたものであったり、将来の夢のためであったり、あるいは単にその場での欲望に駆られた末の行動であったりする。
どれが正しく、どれが間違っているのか? それは簡単には決められないし、長い目で見れば「いつかは間違っていたことも、今では正しい」という風に評価が一変することもある。
そのため、自身の日常を振り返って、「あれをもっとやったほうがいい」「あれはやらない方がいい」という風に取り決めることは、非常に難しい。
自分の生活を振り返ると
自分の最近の生活は、「寝る」「食べる」「本を読む」「トレーニングする」「歌い、踊る」「歩く」「文章を書く」「動画を作る」「ゲームをする」「スマホを見る」・・・とまあ、ざっとこんな感じに分類することができるのだが、
この中で明らかに重要でないものは「ゲームをする」「スマホを見る」ではないだろうかと、今は思う。
しかし、重要ではないだろうと考えている一方で、日によってはこの2つの活動の時間が最も長くなることさえある(寝ることをのぞいて)。
人生において、重要ではないことに多くの時間を割くことほど、哀しいことはない。
「食べる」についても、飽食ぎみで、もっと引き締めるべきだと思う。
さて肝心の「歩く」だが、これについては是非とも毎日、いくらかの時間をこの活動のために割きたいと思っている。
つまり、ゲームやスマホの時間を減らして、その分を歩く時間に当てればよい。
単純に考えると、そうなる。いや、物事は単純明快である方がいいと最近思っているから、さっそく「ゲームやスマホの時間を減らし、歩く時間を増やす」と決めてしまおう。
「トレーニングする」。これも大切だ。年末以来、これは毎日続けている。おかげで体も鍛えられてきた。これは継続していきたい。
そのほかの活動についても、重要であることは言うまでもないから、それぞれ適切な時間を割いて続けていく。
おぬまの歩みは続く
さて、歩こう。お忘れかもしれないが、実はこうやって考えながらも現に糸島農業高校のそばを歩いているのだ。
歩くことは、生きることだ。それは、歩くたびに感じる。
まったく、人間の血管も、肺も何もかも、「循環」することで回っている。
滞ることはすなわち、不健康を誘発する。
座りっぱなしの日々は、確実に人体を蝕んでいると、そう思う。
だから、歩くのだ。古いものを捨て、新しいものを取り入れるために。
おぬまの歩みは続く。
(「歩くおぬま(5)」に続く)
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