205. 「坂の上の雲」を読み終えて

2度目はまるで別の作品

昨日、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読み終えました。

この作品を手に取ったのは今回が2度目でした。

1度目は小学5年生か6年生のときで、朝読書の時間に読んでいたのを覚えています。その証拠に、ある巻の裏表紙には自筆で名前が書かれていました(笑)

小学生の頃の自分の力では、この作品を十分に味わうことができていなかったのを今回の再読で痛感しました。

2度目に読んだ「坂の上の雲」は、まるで別の作品のようでした。

特に印象的だった部分

ちょうど大学の新学期が始まり、他にも読む本が出てきたこともあって、なかなか読み終わらなかった「坂の上の雲」ですが、

読了してしまうと、なぜか空虚な感覚があとに残りました。

これは他の作品を読んだ時もそうで、特に歴史小説は古い時代に遡って読んでいたのが、急に現代に引き戻されるので、読後にノスタルジックな気分に浸ることが多いです。

最終巻である8巻の末尾にある「あとがき集」は、1回目はおそらく読み飛ばしてしまったように記憶していますが、今回は読みました。

司馬遼太郎の文章は1つ1つが印象的なのですが、その中で特に印象に残っているのが、

「頭の中の夜の闇が深く遠く、その中を蒸気機関車が黒い無数の貨車の列をひきずりつつ轟々と通りすぎて行ったような感じだった」

と、「坂の上の雲」という大作を書き終えてしまったあとの自分の状態を表現している一文でした。

書くことの意味

本人は「遠ざかっていく最後尾車の赤い灯をいつまでも見ている自分を滑稽に思えて」、「そのことをわざわざここに書くのが面映ゆくある」と述べているのですが、

僕は僕自身がまさに「遠ざかっていく最後尾車の赤い灯をいつまでも見ている」タイプの人間なので、司馬遼太郎の書いていることにとても共感できました。

「わざわざ書くことが面映ゆくある」にもかかわらず書いてくれたことで、こうして僕のように「同感!」と思う人が出てくるのであれば、それだけで書く意味はあると思います。

実際、僕は司馬遼太郎でもそのように感じているのかと思い、自分に少し自信を持つことができました。

ブログやライターの記事を書いているときに「こんなこと書いていいのかな」「ここは不要かな」と思うことがあるのですが、今回の経験をもとに、感じたことはとりあえず書いておこうと思います。

古いものはやはりいい

昨日の大学の授業で、ドイツ文学の講義を受けたのですが、そこで偶然にもノスタルジックに関係する話が出てきました。

「ヨーロッパの人々は、古代ギリシアやローマの作品の評価を重くする傾向があるように感じたが、どうなのか」という学生からの質問に対して先生が、

「おっしゃるとおりです。古いものはね、やはりいいものなんですよ。誰もが憧れるんです、もう戻れないから」

と答えていたのが、とても心に残りました。

その先生は、昭和のスター・石原裕次郎にとても顔の似ている方でした。

ある活動を計画中

冒頭で「大学の新学期が始まったのもあって、なかなか本を読み進められなかった」と言いましたが、

本を読み進められなかったのは、大学が始まったからというだけではありませんでした。

もちろん8月末に始めたmeets糸島でのライターの活動もありますが、

僕は11月上旬ごろから、ある活動を開始するつもりでいます。

もうその準備は着々と進みつつあり、今週の月曜日から体調を崩したのが少し誤算でしたが、ほぼ問題なく計画は動いています。

いったい何の話をしているのかは、今後のブログ記事でお伝えします☆

(おわり)

カテゴリー

コメントは締め切りました